1.渋沢栄一は1905年、ハンナ・リデルが熊本で運営した回春病院の支援に乗り出した。
2.東京市養育院や全生病院を通じて患者救済に関わる一方、絶対隔離を唱えた光田健輔を後援した。
3.1931年には財団法人癩予防協会の会頭に就任し、同年、日本のハンセン病政策は強制隔離へ大きく傾いた。

1905年11月6日、渋沢栄一は英国人宣教師ハンナ・リデルが熊本で運営した回春病院を支援するため、大隈重信とともに東京・坂本町の銀行倶楽部へ関係者を招いた。大隈が病気で欠席したため、渋沢が代わって演説した。回春病院はハンセン病患者の治療と生活を支えた民間施設で、渋沢はその後もリデルの事業を支援した。実業家として知られる渋沢は、東京市養育院の運営を通じても患者と接点を持ち、ハンセン病の救済を社会事業の課題として扱っていた。
その関与は療養所にも及んだ。1914年7月5日には安達憲忠と東京府下の全生病院を訪れ、後に患者の演劇用衣装や小道具を贈った。全生病院は現在の国立療養所多磨全生園につながる施設である。渋沢が信頼した養育院医官の光田健輔は、患者の隔離を強く主張した中心人物の一人だった。厚生労働省の「ハンセン病問題に関する検証会議」最終報告書は、渋沢が光田の主張を「終始後援」し、中央慈善協会も光田の提唱する絶対隔離政策に同調したと検証している。
1930年10月21日、渋沢は内務大臣安達謙蔵を訪ね、財団法人癩予防協会の設立を協議した。1931年1月21日の発起人会では会頭兼理事に就任し、同協会は3月18日に正式な設立許可を受けた。同じ1931年、日本では「癩予防法」が成立し、在宅患者を含めて隔離する政策が強化された。国立ハンセン病資料館も、渋沢を福祉の先駆者として紹介する一方、そのハンセン病への関わりには隔離政策に関与した側面があると説明している。なお、「癩予防協会」「癩予防法」は歴史上の団体名・法令名として当時の表記を用いている。
ここで、渋沢の患者支援と隔離政策への関与を、どちらか一方だけで評価するのは正確ではない。回春病院への支援や療養所患者への慰問は、厳しい生活を強いられた患者を救おうとする行為だった。他方、患者を社会の外に置いたまま保護する発想は、本人が地域で暮らす自由や家族生活を保障する発想とは異なる。厚生労働省は、1907年以降の隔離政策がハンセン病を感染力の強い病気とする誤った認識を広げ、1931年以降の強制隔離と無らい県運動が偏見と差別を助長したと整理している。
渋沢は1931年11月11日に死去し、癩予防協会会頭として活動した期間は長くなかった。しかし、社会事業家としての知名度と財界での信用を、隔離政策と結び付いた組織に提供した事実は、ハンセン病史を考えるうえで外せない。渋沢栄一の事績は、善意による「救済」が、その時代の医学や政策を無批判に前提とすれば、人の自由を奪う制度を支える側にもなり得ることを示している。厚生労働省の検証会議が渋沢と光田健輔の関係まで検証対象とした理由も、この救済と隔離が併存した歴史にある。
公益財団法人渋沢栄一記念財団「明治38年(1905)渋沢栄一詳細年譜」
URL:https://www.shibusawa.or.jp/SH/kobunchrono/ch1905.html
公益財団法人渋沢栄一記念財団「大正3年(1914)渋沢栄一詳細年譜」
URL:https://www.shibusawa.or.jp/SH/kobunchrono/ch1914.html
公益財団法人渋沢栄一記念財団「昭和5年(1930)渋沢栄一詳細年譜」
URL:https://www.shibusawa.or.jp/SH/kobunchrono/ch1930.html
公益財団法人渋沢栄一記念財団「昭和6年(1931)渋沢栄一詳細年譜」
URL:https://www.shibusawa.or.jp/SH/kobunchrono/ch1931.html
厚生労働省「ハンセン病問題に関する検証会議 最終報告書 第十二 ハンセン病強制隔離政策に果たした各界の役割と責任」
URL:https://www.mhlw.go.jp/topics/bukyoku/kenkou/hansen/kanren/dl/4a22b.pdf
国立ハンセン病資料館「渋沢栄一の生涯とハンセン病-その事績と功罪をめぐって-」
URL:https://www.nhdm.jp/events/list/2272/

