無らい県運動とは、ハンセン病患者を地域からなくすことを目的に、患者を見つけ出して療養所へ入所させようとした官民一体の運動です。「無らい県」とは、患者がいない県を意味する言葉として使われました。日本では、1929年ごろから全国的に広がり、1931年の「癩予防法」以降、患者の強制隔離政策と結び付いて進められました。行政、警察、医療関係者、地域住民、民間団体が関与し、ハンセン病患者・元患者やその家族への差別と偏見を深めた運動です。
1.無らい県運動の意味
無らい県運動は、ハンセン病患者を地域から見つけ出し、療養所に入所させることを目指した運動です。単なる啓発活動ではなく、患者の所在を把握し、地域から切り離すことを目的としていました。
この運動では、各県が「患者のいない県」を目指す形で、患者の発見や収容を進めました。患者本人の意思や生活状況よりも、地域から患者をなくすことが優先されました。患者が療養所に入所すれば、その人は家族、仕事、地域とのつながりを失うことになりました。
無らい県運動の特徴は、国や自治体だけでなく、地域住民も関わった点にあります。近隣の人が患者の存在を通報する、地域で患者や家族が避けられる、入所を迫られるといったことが起きました。これにより、患者本人だけでなく、その家族も地域で生活しにくくなりました。
この運動は、ハンセン病を「地域からなくすべき病気」として扱いました。その結果、病気への誤解が制度と地域の行動によって強められ、患者・元患者や家族への差別が固定化されました。
2.制度・法律との関係
無らい県運動は、ハンセン病の隔離政策と深く結び付いています。日本のハンセン病政策は、1907年の「癩予防ニ関スル件」、1931年の「癩予防法」、1953年の「らい予防法」へと続きました。これらの法制度は、患者を療養所に入所させ、社会から切り離す政策を支えました。
1931年の「癩予防法」は、在宅患者も含めて隔離を進める制度として運用されました。無らい県運動は、この強制隔離政策を地域で実行する役割を果たしました。県や市町村が患者の発見と収容を進め、地域住民にも協力が求められました。
戦後も、隔離政策はすぐには終わりませんでした。1953年の「らい予防法」は、戦後の日本国憲法の下でも隔離を基本とする仕組みを残しました。治療薬の登場により、ハンセン病は治療可能な病気となっていたにもかかわらず、法律上の隔離政策は1996年まで存続しました。
2001年の熊本地方裁判所判決は、国の隔離政策の誤りを明確にしました。その後、補償、名誉回復、福祉の増進、家族被害への補償、教育・啓発が制度課題として進められるようになりました。無らい県運動は、こうした隔離政策が地域に広がる過程を理解するうえで欠かせない用語です。
3.人権上の論点
無らい県運動の人権上の問題は、病気を理由に人を地域から排除することを、行政と地域が一体となって進めた点にあります。患者は治療や支援を受けるべき人であると同時に、家族と暮らし、働き、地域で生活する権利を持つ人でした。無らい県運動は、その生活の基盤を奪う方向に働きました。
第一の論点は、地域ぐるみの排除です。差別は、国の法律や行政命令だけで起きたわけではありません。患者を見つけ出し、療養所へ送ることを地域の「正しい行動」とする空気が作られました。これにより、患者や家族は、近隣の目を恐れ、病気や家族関係を隠して暮らさざるを得なくなりました。
第二の論点は、家族への被害です。患者が療養所に入所すると、家族も地域で偏見を受けました。結婚、就職、学校生活、親族関係に影響が及び、患者との関係を断つような圧力を受けた人もいました。無らい県運動は、患者本人だけでなく、家族の尊厳と生活にも被害を及ぼしました。
第三の論点は、感染症への恐怖が政策と結び付いた危険です。医学的根拠に基づかない恐怖や偏見が広がると、患者を守るのではなく、患者を社会から遠ざける政策が支持されやすくなります。無らい県運動は、感染症対策の名の下に、排除が正当化された歴史を示しています。
この用語を学ぶことは、ハンセン病の歴史を知るだけではありません。国、自治体、地域住民が差別にどう関わったのかを確認することです。無らい県運動は、制度による隔離と地域社会の偏見が結び付いたとき、人の自由、家族、名誉、生活がどのように奪われるのかを示す重要な人権用語です。