1.「全國部落調査」は1936年3月、財団法人中央融和事業協会が各府県への照会結果をまとめた内部資料で、表紙には「秘」と記されていた。
2.1975年に発覚した企業向けの「部落地名総鑑」とは、作成主体、目的、流通経路が異なる。1936年資料が採用差別や結婚調査のために作られた事実は確認されていない。
3.歴史資料として保存・研究することと、現在の地名を加えて検索可能な形で一般公開することは別の行為である。東京高裁も、地名を匿名化した研究発表は可能だと判断した。

表紙に「秘」、各府県への照会を集約
1936年3月、財団法人中央融和事業協会は「全國部落調査」と題する資料を編纂した。東京地方裁判所が2021年9月27日に言い渡した判決によると、同協会が融和事業を計画するための基礎資料として、1935年ごろに東京府を含む各府県へ照会し、回答内容を集約したものである。表紙中央には「秘」の文字があり、「統計表」と「各府縣部落調査」、参考表の「大正十年内務省調査 全國部落統計表」で構成されていた。
「各府縣部落調査」には、地域の所在地、名称、戸数、人口、主業・副業、生活程度が府県別に記載された。単なる人口統計ではなく、特定の地域を識別できる地理情報と、住民の職業や生活状況を結び付けた資料だった。
中央融和事業協会は1925年に成立し、全国の融和事業に関する年鑑、会報、研究誌、講演資料などを刊行していた。国立国会図書館には、同協会が発行した「融和事業年鑑」や「融和資料」などが所蔵されている。「全國部落調査」は、個人が作った私的な地名一覧ではなく、戦前の融和事業を担った中央団体が、地方行政から集めた情報を基に作成した資料だった。
生活改善の資料と住民を分類する資料
1936年資料の作成目的は、判決が認定した範囲では「融和事業の積極的計画化」のための基礎資料だった。地域ごとの人口、職業、生活程度を把握し、どこでどのような施策を実施するかを検討する行政的な用途が想定されていた。
しかし、生活改善を計画するための調査であったことは、記載方法に問題がなかったことを意味しない。資料は、住民一人ひとりの生活を個別に把握するのではなく、特定地域を一つの集団として分類し、所在地と生活水準を固定的に記録している。作成当時の行政が、地域住民をどのように認識し、どのような単位で政策対象としていたのかを示す史料でもある。
この資料からは、戦前の地域政策、貧困対策、職業構造、行政調査の方法を検討できる。その意味で歴史研究上の資料価値はある。ただし、資料価値があることと、地域名を現在の住所と結び付けて誰でも検索できる状態にすることは同義ではない。
1975年の「部落地名総鑑」とは別の資料
「全國部落調査」は、1975年に発覚した「部落地名総鑑」と混同されやすい。両者は、地域の所在地を一覧化している点では共通するが、作成主体と目的が異なる。
1975年事件で発覚した地名総鑑は、企業の人事担当者らに秘密資料として販売され、応募者の住所や本籍を照合して、被差別部落との関係を調べるために利用され得る商品だった。企業、病院、学校など220を超える購入先が確認され、採用選考や身元調査との関係が問題となった。
1936年の「全國部落調査」は、それより約40年前に中央融和事業協会が作成した内部資料である。現在確認できる裁判資料からは、同協会が企業の採用選考や結婚調査へ販売する目的で編纂したとは認められない。したがって、「1936年資料そのものが就職差別のために作られた」と説明するのは正確ではない。
両者の関係は、作成目的が同じだったことではなく、1936年資料に収録された地名情報が、後世に切り離され、差別的な身元調査に利用できる一覧へ転用され得た点にある。行政施策のために収集された情報でも、利用目的と流通範囲が変われば、住民を識別する資料として機能する。
「秘」の内部資料から検索可能なデータへ
示現舎は2016年2月、「復刻 全国部落調査 部落地名総鑑の原典」と題する書籍を同年4月1日に出版すると告知した。元資料を横書き・活字へ改め、約200ページに圧縮し、現在の地名も可能な範囲で追加すると説明した。ウェブサイトでは、元資料に掲載された「全国5360以上」の地域について、地名、世帯数、人口、職業、生活程度を一覧化すると宣伝していた。
この編集は、古い資料を画像のまま保存する作業とは異なる。縦書きの謄写版資料を活字化し、情報を検索しやすくし、旧地名と現在地を結び付けることで、現在の住所から対象地域を調べられる可能性を高める。示現舎は同じ情報をウェブ上でも公開し、画像、PDF、テキストの各形式で閲覧できる状態にした。
1936年当時、資料は「秘」とされた内部文書で、閲覧者と利用目的が限定されていた。2016年の公開では、利用者、目的、複製回数に制限がなく、検索、保存、転載が可能になる。内容が同じでも、情報の到達範囲と利用可能性は異なる。
保存、閲覧、一般公開は三つの異なる行為
歴史資料の取扱いを考える際には、「保存するか、廃棄するか」という二択にしてはならない。少なくとも、保存、限定的な閲覧、一般公開を分ける必要がある。
保存は、過去の行政や社会が差別問題をどのように把握していたかを後世に検証できる状態にする行為である。資料の存在を消せば、戦前の行政調査や融和事業の問題点を研究する手掛かりも失われる。
限定的な閲覧では、研究目的、閲覧場所、複写方法、成果公表時の匿名化などの条件を設けられる。原資料の内容を確認する必要がある研究者と、不特定多数への公開を同じ取扱いにする必要はない。
一般公開は、資料全体を誰でも取得、検索、複製できる状態にする行為である。特に現在の地名を加えたデータは、歴史を理解するためだけでなく、現在の住民や出身者を識別するためにも利用できる。公開の可否は、資料の成立年代だけでなく、公開方法、情報の具体性、現在の差別状況を含めて判断する必要がある。
東京高裁は研究と地名公開を区別
東京高裁は2023年6月28日の判決で、具体的な地域情報の公表を禁止しても、示現舎側による同和地区に関する調査・研究そのものが禁止されるわけではないと述べた。研究成果についても、具体的な地域を特定しなければ発表できないとはいえず、地域を匿名にする方法があると判断した。
高裁は、地域情報が公表されることで保護される原告側の利益と、示現舎側が主張した調査・研究上の利益を比較し、具体的な地名情報の公表禁止を認めた。これは、「部落史を研究してはならない」という判断ではない。研究対象となる地域を不特定多数に識別させなければ、歴史研究や政策研究を継続できるという区別である。
同判決は、インターネット上で情報の流通を制限することが容易でないことや、地名情報を閲覧した人に新たな差別意識が形成される可能性にも言及した。具体的な地域を示す情報は、差別的な意図を持つ人だけが閲覧するとは限らず、公開そのものが差別の再生産につながり得ると判断した。
東京高裁判決は、2024年12月4日に最高裁第三小法廷が原告・被告双方の上告を棄却したことで確定した。最高裁が新たな詳細理由を示したのではなく、具体的な地域情報の差止めを認めた高裁判断が維持された形である。
地名を消せば研究にならないのか
地域史の研究では、土地の位置、周辺産業、交通、災害、都市政策との関係を調べるため、具体的な地理情報が必要になる場合がある。研究者が原資料を確認する段階ですべての地名を消せば、史料の検証可能性が失われることもある。
しかし、研究過程で具体的な地名を扱う必要があることと、研究成果として全国の所在地一覧をそのまま公開する必要があることは別である。論文や報告書では、研究対象を記号化し、都道府県や都市規模までに範囲を広げ、原資料の保管機関と閲覧条件を示す方法がある。研究結果を第三者が検証できることと、現在の住民を特定できる一覧を配布することは一致しない。
個別の地名を示す必要がある場合も、当該地域の歴史を説明する目的、記載範囲、現在の住民への影響、地域側との協議を確認する必要がある。全国の所在地を一括して検索可能にする行為とは、目的も被害の範囲も異なる。
1936年資料を現在扱うための四条件
「全國部落調査」を資料館、図書館、研究機関が扱う場合には、次の四条件を整理する必要がある。
1.原資料を保存する目的と、閲覧を認める目的を明示する。
2.複写、撮影、デジタルデータの持出し、全文検索の条件を個別に定める。
3.研究成果の公表では、具体的な地名を掲載する必要性と、匿名化できない理由を確認する。
4.旧地名を現在の住所へ変換した一覧や地図は、原資料の保存とは別の二次的なデータベースとして審査する。
特に第四の条件が欠かせない。1936年の資料をそのまま保存することと、旧地名を現在の地名に置き換えた検索表を新たに作ることは同じではない。後者では、編集者が現代の住所と地域を結び付ける新しい情報処理を行っているからである。
歴史を残し、識別情報の再利用を防ぐ
「全國部落調査」は、戦前の融和事業が地域住民をどのように分類し、行政施策の対象として把握したかを示す歴史資料である。同時に、地域名、人口、職業、生活程度を結び付けた構造は、現在の住民や出身者を識別する一覧へ転用できる。
資料を保存することは、差別の歴史を検証するために必要である。しかし、「秘」とされた1936年の内部資料を、現在の地名を加えてインターネット上で公開する行為まで、歴史資料の保存だけで説明することはできない。
中央融和事業協会が政策立案のために作成した資料と、示現舎が2016年に計画した活字化・現地名追加版の間には、80年の時間だけでなく、利用者、検索性、複製可能性の差がある。この差を明示することが、歴史研究を守りながら、部落識別情報の再流通を防ぐための出発点となる。
東京地方裁判所「令和3年9月27日判決 損害賠償等請求事件」
URL:https://www.courts.go.jp/assets/hanrei/hanrei-pdf-91299.pdf
東京高等裁判所「令和5年6月28日判決 損害賠償等請求控訴事件」
URL:https://www.courts.go.jp/assets/hanrei/hanrei-pdf-92822.pdf
国立国会図書館「中央融和事業協会関係資料」
URL:https://ndlsearch.ndl.go.jp/search?cs=bib&from=0&q-author=%22%E4%B8%AD%E5%A4%AE%E8%9E%8D%E5%92%8C%E4%BA%8B%E6%A5%AD%E5%8D%94%E4%BC%9A%22&size=20
渋沢栄一記念財団「融和事業」
URL:https://www.shibusawa.or.jp/SH/denkijigyo/np043.html
部落解放同盟中央本部「『全国部落調査』復刻版出版事件高裁判決確定で声明」
URL:https://www.bll.gr.jp/info/news2025/news20250115-4.html

