1.2003年11月、熊本県の「ふるさと訪問事業」で菊池恵楓園の入所者を受け入れる予定だったホテルが、ハンセン病元患者であることを理由に宿泊を拒否した。
2.熊本県と熊本地方法務局は旅館業法違反として告発し、ホテル側には3日間の営業停止処分、経営会社などには罰金が科された。
3.2023年改正旅館業法は、この宿泊拒否事件を教訓として差別防止の研修や宿泊拒否時の説明・記録を制度に盛り込んだ。

2003年11月13日、熊本県阿蘇郡南小国町の「アイレディース宮殿黒川温泉ホテル」は、国立療養所菊池恵楓園の入所者が宿泊予定者に含まれることを知り、熊本県に宿泊拒否を伝えた。県職員、南小国町長、黒川温泉旅館観光協同組合長らが再考を求めたが、ホテル側は「会社の方針」として受入れを拒んだ。11月17日に菊池恵楓園入所者自治会の役員がホテルを訪ねた際にも、ハンセン病であることが拒否理由であるとの回答は変わらなかった。1996年のらい予防法廃止から7年、2001年の熊本地裁国家賠償判決から2年余り後の出来事だった。
厚生労働省は事件公表翌日の11月19日、全国の自治体と旅館・公衆浴場関係団体に通知を出した。ハンセン病は飲食や入浴などの日常生活を通じて感染するものではなく、当時の旅館業法第5条が宿泊拒否理由としていた「伝染性の疾病」には該当しないと明記した。熊本県と熊本地方法務局は11月21日、旅館業法違反の疑いでホテルを告発。熊本県は翌年3月に3日間の営業停止処分を決定し、熊本地検は同月、経営会社と関係者を略式起訴し、それぞれ罰金2万円となった。医学的な感染リスクではなく、病歴に対する偏見を理由とした宿泊拒否だったことが行政・刑事手続の対象となった。
事件が示した問題はホテルの判断だけではない。ホテル側が菊池恵楓園を訪れて謝罪した際、入所者自治会は宿泊拒否そのものへの謝罪ではないとして受入れを拒んだ。その後、自治会には「謝罪を拒否した」ことを非難する電話や手紙が相次いだ。熊本県の「無らい県運動」検証委員会報告書は、この経緯を宿泊拒否事件の一部として記録している。隔離政策の違法性が司法判断で確認され、国が謝罪しても、元患者を「他の客とは異なる存在」と見る社会的な意識まで直ちに解消されるわけではなかった。宿泊拒否そのものに加え、差別を訴えた当事者側へ批判が向かったことも、この事件の重要な側面である。
この事件は20年後の法改正にも影響を残した。2023年12月施行の改正旅館業法は、一定の感染症患者や過度な要求を繰り返す宿泊客について拒否事由を整理する一方、旅館業者に「みだりに宿泊を拒むことがないようにする」ことを求めた。厚生労働省は改正法の解説で、過去にハンセン病元患者が宿泊を拒否された事例を明示し、感染症患者や障害者などへの不当な差別につながらないよう、従業者への研修機会を設ける努力義務を導入したと説明している。一定の拒否事由によって宿泊を断った場合には、理由などを記録し3年間保存する措置も設けられた。
黒川温泉宿泊拒否事件から読み取るべきなのは、「正しい医学知識を知らせれば差別はなくなる」という単純な構図ではない。日本では行政自身が長期間の隔離政策と「無らい県運動」を通じて、ハンセン病患者を社会から隔てる意識を強めた歴史がある。だからこそ、差別解消には医学的知識の普及だけでなく、宿泊拒否など具体的な場面で誰がどの基準で判断し、その判断を記録・検証できる制度を持つことが必要になる。2023年改正旅館業法がホテル従業者の研修と宿泊拒否の記録を制度化したことは、2003年の菊池恵楓園入所者への宿泊拒否を、現在の宿泊行政にもつながる人権問題として残している。
熊本県「『無らい県運動』検証委員会報告書 第四章2 ホテル宿泊拒否事件」
URL:https://www.pref.kumamoto.jp/uploaded/attachment/49333.pdf
熊本県「『無らい県運動』検証委員会報告書」
URL:https://www.pref.kumamoto.jp/soshiki/44/5020.html
厚生労働省「ハンセン病に関する正しい知識の普及について(平成15年11月)」
URL:https://www.mhlw.go.jp/topics/bukyoku/kenkou/hansen/rikai/4.html
厚生労働省「旅館業法」
URL:https://www.mhlw.go.jp/stf/seisakunitsuite/bunya/0000130600.html
厚生労働省「旅館業法改正 特定感染症の患者等の宿泊拒否について」
URL:https://www.mhlw.go.jp/kaiseiryokangyohou/second_2.html
厚生労働省「旅館業法改正 差別防止等の更なる徹底」
URL:https://www.mhlw.go.jp/kaiseiryokangyohou/second_3.html
厚生労働省「旅館業の施設において特定感染症の感染防止に必要な協力の求めを行う場合の留意事項並びに宿泊拒否制限及び差別防止に関する指針」
URL:https://www.mhlw.go.jp/stf/newpage_231115_00003.html

