
ここまで、改定版行動計画の全体像から始まり、改定の背景、人権デュー・ディリジェンス、サプライチェーン、ライツホルダーごとの課題、AI・環境、能力構築、情報開示、公共調達、救済まで見てきた。最終回で改めて向き合うべきなのは、第3章に置かれた「政府から企業への期待表明」である。ここには、日本政府が結局のところ、全ての企業に何を求めているのかが最も端的に示されている。結論から言えば、その規模や業種にかかわらず、全ての日本企業が、国際的に認められた人権を尊重し、人権尊重の取組に最大限努めることが期待されている。これは一部の上場企業や輸出企業だけに向けられた呼びかけではない。企業である以上、どこも無関係ではいられないという宣言である。
改定版は、その理由も明確に述べている。企業活動が人権に与える影響への注目が高まるなかで、企業の対応は、不買運動や取引先評価の低下に関わり得るものとなっており、人権リスクに向き合うことは経営リスクの抑制につながる。また、適切な取組と開示は、企業イメージの向上、投資先としての評価向上、取引先との関係性向上、優秀な人材の獲得・定着に結び付き、ひいては企業価値の向上につながると整理されている。つまり改定版は、人権尊重を倫理と経営のどちらかではなく、両方の課題として位置付けているのである。
では、企業は具体的に何をすべきなのか。第3章は、指導原則に沿って企業に求められる基本として、第一に人権方針の策定・公表、第二に人権デュー・ディリジェンスの実施、第三に自社が人権への負の影響を引き起こし又は助長している場合の防止・軽減措置と救済の実施を挙げる。さらに、自社の事業等が人権への負の影響に直接関連している場合には、影響力の行使や強化、支援を通じて、負の影響の防止・軽減に努めるべきだとする。ここで重要なのは、問題が起きてから対応するだけでなく、事前に把握し、対話し、改善していく継続的な姿勢が求められている点である。
改定版はまた、人権方針の導入だけで満足してはならないとも示している。大企業を中心に方針策定は進んでいるが、それにとどまらず、効果的な人権デュー・ディリジェンスと苦情処理メカニズムの構築・活用を通じて、企業全体に人権方針を定着させることが重要だというのである。つまり、方針は出発点にすぎず、日々の事業活動、調達、雇用、営業、開示、相談対応の中で具体的に生きていなければ意味がない。ここに、今回の連載全体を貫いてきた「理念から実務へ」という改定版の性格が表れている。
一方で改定版は、全ての企業に一律の完璧さを求めているわけではない。企業が取る手段の規模や複雑さは、企業の規模、業種、人権への負の影響の深刻度などに応じて異なり得るし、特定された負の影響全てについて直ちに対処することが難しい場合もあると認める。そのうえで、より深刻度の高い人権への負の影響から優先して対応することが重要だと記す。これは、中小企業や体制の限られた企業にとって極めて重要なメッセージである。最初から完璧な仕組みを作れなくてもよい。重要なのは、自社にとって深刻な論点から優先順位を付けて着手することだ。
また、改定版は、人権尊重の取組は自社だけで完結しないとも繰り返す。企業の責任は、自社・グループ会社にとどまらず、サプライチェーン上のサプライヤー等にも及ぶ。その際、サプライヤー等に対しては、十分な情報・意見交換を行い、理解や納得を得られるよう努め、共に協力して取り組むことが重要だとされる。ここでも、取引先を管理対象として切り離すのではなく、改善を共に進める関係として捉える視点が示されている。人権尊重は、一社単独の美徳ではなく、事業関係全体の質を問うものなのである。
では、これから取り組む企業にとっての第一歩は何か。改定版は、2022年策定の業種横断的なガイドラインを基本資料とし、実務参照資料、食品企業向け手引き、「労働におけるビジネスと人権チェックブック」、業界団体のガイドライン、関係府省庁のポータルサイトなどの活用を促している。現実的な順序としては、まず経営として人権尊重に取り組む意思を明確にし、自社に関係の深い論点を洗い出し、既存の労務、安全衛生、調達、相談窓口、コンプライアンスの仕組みを人権の視点で見直すことになるだろう。そのうえで、優先度の高い分野から人権デュー・ディリジェンスの考え方を導入し、必要に応じて外部支援や手引きを活用していくのが現実的である。
改定版行動計画は、強い理念を持ちながらも、実務上の漸進的な前進を認める文書である。だからこそ、企業にとって最も避けるべきなのは、「難しそうだから何もしない」という態度だろう。人権尊重を完璧に実現している企業は少ないとしても、何をリスクと認識し、どこから手を付け、どう改善しようとしているかを示せる企業と、何も考えていない企業の差は、今後ますます大きくなる。今回の改定版は、その分岐点がすでに来ていることを日本企業全体に告げている。人権尊重は、もはや一部先進企業の選択肢ではなく、企業経営の基本条件になりつつある。そのことを確認して、この連載を閉じたい。
改定版行動計画を通読して感じるのは、日本政府が「ビジネスと人権」を、単なる人権啓発政策から、企業統治、産業政策、通商、投資、公共調達、労働政策を横断する国家的な経済ルールへ位置付け直しつつあるということである。これはおそらく、今後さらに明確になる。表向きは「期待表明」であっても、開示、調達、支援、評価、救済の仕組みが積み重なれば、人権尊重は事実上の標準になっていくからだ。企業にとって本当の論点は、「義務化されたらやるか」ではなく、「標準になる前にどう備えるか」にある。先に動いた企業ほど、後から人権対応を迫られる企業よりも、制度変化にも取引先要求にも対応しやすい。改定版が企業に求めている第一歩とは、結局のところ、その先手を打てるかどうかなのである。
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