1.2023年6月施行のゲノム医療推進法は、ゲノム情報による不当な差別を防ぐことを基本理念に掲げたが、民間事業者を直接規制する包括的な「遺伝差別禁止法」ではない。
2.厚生労働省は採用時の遺伝情報取得を原則として問題のある行為と整理し、生命保険業界は遺伝学的検査結果を引受けや保険金支払いに利用しない運用を公表している。
3.米国には2008年制定のGINAがあり、雇用や医療保険で遺伝情報の利用を法的に制限する。日本政府も2026年度以降、不当な差別事例の収集と対応方針の整理を進めるとしている。
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2023年の法律が初めて「ゲノム情報による不当な差別」を明記
2023年6月16日に施行された「良質かつ適切なゲノム医療を国民が安心して受けられるようにするための施策の総合的かつ計画的な推進に関する法律」(ゲノム医療推進法)は、個人のゲノム情報について、本人だけでなく家族の将来の健康状態を予測し得るという特性を法律上明記した。同法第3条は、ゲノム情報の保護を十分に図るとともに、「当該ゲノム情報による不当な差別が行われることのないようにすること」を基本理念の一つとしている。
ここでいう「ゲノム情報」は、同法第2条で、人の細胞の核酸を構成する塩基配列、その特性、核酸の機能発揮の特性に関する情報と定義される。例えば、遺伝学的検査によって将来特定の疾病を発症する可能性が高いことが分かった場合、その情報は現在の病気だけを示す診療情報とは異なる性質を持つ。本人がまだ発症していなくても将来の健康リスクを示す可能性があり、親、子、きょうだいなど血縁者に関する情報にもつながり得るためである。
ゲノム医療推進法第16条も、国に対し、ゲノム情報による不当な差別や、情報利用の拡大によって生じ得る課題への対応に必要な施策を講じるよう定めた。
ただし、この法律の構造には注意が必要だ。第16条は「国は必要な施策を講ずるものとする」と規定しており、企業に対して「遺伝情報を採用判断に利用してはならない」、保険会社に対して「遺伝情報を保険引受けに利用してはならない」と直接禁止する条文ではない。違反事業者への罰則を設けた法律でもない。「ゲノム情報による不当な差別を防ぐ」という国の政策上の原則が法律になったことと、個別の差別行為を直接禁止する法律が成立したことは区別する必要がある。
採用時に遺伝情報を尋ねることは原則として認められない
雇用分野では、ゲノム医療推進法とは別の既存法制が実際の規制に使われる。厚生労働省は2024年8月、「ゲノム情報による不当な差別等への対応の確保(労働分野における対応)」を公表し、採用、解雇、配置転換、昇格、昇給などについて具体的なQ&Aを示した。
採用選考について厚生労働省は、職業安定法第5条の5と同法に基づく指針を根拠としている。求職者の個人情報は業務目的の達成に必要な範囲で収集しなければならず、本籍、出生地など「社会的差別の原因となるおそれのある事項」は、特別な職業上の必要性があり、業務目的の達成に不可欠な場合などを除いて収集できない。厚生労働省は、遺伝情報もこの事項に含まれると明記した。
遺伝情報を採用に利用すれば、本人に責任のない事項によって採否を左右することにもなる。このため厚生労働省は、公正採用選考の立場から、必要性のない遺伝情報を事業主が把握してはならないとしている。問題のある事案については、ハローワークが事業主への指導・啓発を行う。
採用後についても、会社からゲノム情報の提出を求められた場合、厚生労働省のQ&Aは労働者がその要求に応じる必要はないとしている。ゲノム情報だけを根拠に配置転換した場合についても、それが合理的理由になるとは考えられず、一般的には権利濫用として無効になるとの考え方を示している。
したがって、日本には米国のような雇用分野を横断する遺伝情報差別禁止法はないものの、「会社なら遺伝子検査の結果を自由に集め、採用や人事に使える」という状態でもない。職業安定法、公正採用選考、労働契約上の権利濫用法理などを組み合わせて対応しているのが現在の制度である。
生命保険は「法律による禁止」ではなく業界が非利用を明示
もう一つ大きな問題になるのが民間保険である。例えば遺伝学的検査によって、現在は発症していないものの、将来特定の病気になる可能性が高いことが分かった場合、その結果が生命保険への加入可否や保険料に利用されるのではないかという懸念が生じる。
金融庁は2025年3月25日、「ゲノム情報による不当な差別等への対応の確保(保険分野における対応)」を公表し、生命保険協会、日本損害保険協会、日本少額短期保険協会による対応をまとめている。
生命保険協会は、生命保険の引受けや保険金等の支払いに際して、遺伝学的検査結果を収集・利用していないと公表している。提出された告知書や診断書に遺伝学的検査結果が含まれている場合だけでなく、病名や家族の病歴、遺伝カウンセリングの記録などから遺伝学的検査結果と同等の情報を特定できる場合についても、その情報を利用しないとしている。
ここでも区別すべき点がある。この取扱いは「ゲノム医療推進法によって全生命保険会社による利用が刑罰付きで禁止された」という意味ではない。生命保険協会が会員会社の現在の取扱いとして公表している業界対応である。
病名、手術予定、投薬状況など通常の健康状態に関する告知まで利用できなくなったわけでもない。生命保険協会は、こうした医療情報に基づいて引受けや支払いを判断する一方、遺伝学的検査結果そのものや同等の情報は利用しないという線引きを示している。
医療を受けない「遺伝差別」の発生もあり得る
遺伝差別が問題になる理由は、実際に差別された人だけに影響が及ぶためではない。「遺伝子検査を受けると就職や保険で不利になるかもしれない」と本人が考え、必要な検査やゲノム医療そのものを避ける可能性があるからである。
日本医学会、日本医学会連合、日本医師会は2022年4月6日の共同声明で、遺伝情報やゲノム情報が不適切に扱われた場合、患者と血縁者に対し、保険、雇用、結婚、教育など医療以外の場面で不当な差別や社会的不利益をもたらす可能性があると指摘した。共同声明は国に法的整備を要請し、保険会社などにも自主的な取扱方針の策定と公表を促した。
厚生労働省のゲノム医療基本計画の検討資料で紹介された一般市民調査では、2017年と2022年の双方で回答者の約3%が、自身または家族について遺伝情報に関連する何らかの不利益な取扱いを受けた経験があると回答した。遺伝情報の不適切な利用や差別について罰則のある法律が必要だとした回答は、両調査とも7割を超えた。
これに対し、法務省の2025年の人権侵犯事件統計では、「差別」の内訳に新設された「ゲノム情報」の項目に事件は計上されていない。行政の人権救済手続で把握された件数と、市民が経験したと認識する不利益の数は同じ指標ではない。本人が遺伝情報を理由に不利益を受けたことを認識できない場合や、人権相談へ結び付かない場合もあり、行政統計の件数だけから問題の規模を判断することはできない。
政府自身も「仕組みや体制は未成熟」と認識
2025年11月21日に閣議決定された「ゲノム医療施策に関する基本的な計画」は、この制度上の課題を明記している。
基本計画は、ゲノム情報に基づく不当な差別を防止する仕組みや体制、「どのような事例がゲノム情報による不当な差別等に該当するのか」の整理について、議論がまだ成熟していないと記載した。その上で、2026年度以降、ゲノム情報による不当な差別等に関する事例を収集・整理し、関係機関や相談窓口における対応方針を整理するとしている。
つまり、2026年9月時点は、ゲノム医療推進法の制定によって問題が解決した段階ではなく、法律が掲げた原則を個々の採用、雇用、保険、相談・救済の場面に落とし込む途中にある。
法務省も「ゲノム情報(遺伝情報)に関する偏見や差別をなくしましょう」とする人権啓発項目を設け、就職や保険加入などで不当な差別やプライバシー侵害が発生するおそれがあるとして、人権相談と調査救済の対象としている。
UNESCOは1997年に遺伝的特徴による差別を否定
遺伝情報による差別は、日本だけで生じた新しい問題ではない。
UNESCO(国連教育科学文化機関)が1997年11月11日に採択した「ヒトゲノムと人権に関する世界宣言」は、第2条で、何人も遺伝的特徴にかかわらず尊厳と権利を尊重される権利を有するとし、第6条では、人権、基本的自由、人間の尊厳を侵害する意図または効果を持つ遺伝的特徴に基づく差別を否定している。
重要なのは、人間を遺伝的特徴だけに還元しないという考え方である。ある遺伝子変異が疾病リスクと関連していたとしても、疾病の発症には遺伝的要因だけでなく環境その他の条件が関係する場合がある。将来の確率を示す情報を、現在の能力や人格そのものと同一視すれば、科学的にも人権上も問題が生じる。
米国GINAとの違いは「直接禁止する法律」があること
米国では2008年、Genetic Information Nondiscrimination Act(GINA、遺伝情報差別禁止法)が成立した。
GINAの雇用分野を所管する米雇用機会均等委員会(EEOC)によると、一定の雇用主は、採用、解雇、賃金、配置、昇進などの雇用判断に遺伝情報を利用できない。原則として応募者や従業員の遺伝情報を要求、取得、購入することも禁止される。
医療保険についても、遺伝情報を利用して加入資格や保険料を決定することなどが制限される。この点で、行政施策を講ずるよう国に義務付ける日本のゲノム医療推進法より、民間主体の行為を直接規制する仕組みが明確である。
ただし、米国制度もあらゆる保険と雇用を対象とするわけではない。米国保健福祉省(HHS)によれば、GINAによる保険分野の保護は生命保険、就業不能保険、長期介護保険には及ばず、雇用分野にも一定の適用除外がある。
この点では「米国では遺伝情報を一切保険に使えない、日本では自由に使える」という単純な比較も正確ではない。米国は法律で雇用と医療保険を直接規制する一方、日本では生命保険業界が遺伝学的検査結果を利用しない方針を自主的に明示している。規制対象と法的手段が異なっている。
「検査結果を知られない権利」だけでは足りない
ゲノム情報をめぐる問題は、個人情報を漏えいさせないことだけでは解決しない。
情報が適法に取得された場合でも、その情報を「何に使ってよいか」という別の問題が残るからである。個人情報保護法によって取得や第三者提供を規律することと、遺伝情報を理由に採用を拒否したり保険契約で不利益を与えたりする行為を禁止することは、制度上異なる問題である。
日本では2023年のゲノム医療推進法によって、ゲノム情報の保護と不当な差別への対応が国の政策として法律に組み込まれた。2024年には厚生労働省が労働分野のQ&Aを示し、2025年には金融庁が保険分野の対応を整理、同年11月には政府が初の基本計画を策定した。
次に検証すべきなのは、これらの仕組みが実際の採用、人事、保険契約で機能しているかである。基本計画は2026年度以降、差別事例を収集し、相談窓口の対応方針を整理するとしている。ゲノム医療推進法施行から5年を目途とする法律自体の検討時期も控える。遺伝情報を医療のために利用することと、その情報を本人や家族の不利益に転用させないことを、どこまで具体的なルールとして確立できるかが制度検証の対象となる。
e-Gov法令検索「良質かつ適切なゲノム医療を国民が安心して受けられるようにするための施策の総合的かつ計画的な推進に関する法律」
URL: e-Gov法令検索
厚生労働省「ゲノム医療施策に関する基本的な計画」
URL: 厚生労働省・基本計画
厚生労働省「『ゲノム医療施策に関する基本的な計画』について」
URL: 厚生労働省・基本計画公表資料
厚生労働省「ゲノム情報による不当な差別等への対応の確保(労働分野における対応)」
URL: 厚生労働省・労働分野
金融庁「ゲノム情報による不当な差別等への対応の確保(保険分野における対応)」
URL: 金融庁・保険分野
一般社団法人生命保険協会「生命保険の引受・支払における遺伝情報の取扱い」
URL: 生命保険協会
日本医学会・日本医学会連合・日本医師会「『遺伝情報・ゲノム情報による不当な差別や社会的不利益の防止』についての共同声明」
URL: 日本医学会・共同声明
法務省「ゲノム情報(遺伝情報)に関する偏見や差別をなくしましょう」
URL: 法務省
法務省「『人権侵犯事件』統計資料(令和7年)」
URL: 法務省・令和7年人権侵犯事件統計
UNESCO「Universal Declaration on the Human Genome and Human Rights」
URL: UNESCO・ヒトゲノムと人権に関する世界宣言
U.S. Equal Employment Opportunity Commission「Genetic Information Nondiscrimination Act」
URL: 米国EEOC・GINA
U.S. Department of Health and Human Services「Genetic Information Nondiscrimination Act (GINA): OHRP Guidance」
URL: 米国HHS・GINA
ゲノム情報
URL: 人権ニュース用語集「ゲノム情報」
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