1.示現舎は2016年、1936年の「全國部落調査」を活字化し、現在の地名を加えた復刻版の出版を予告するとともに、地域情報をインターネット上で公開した。
2.東京地裁は2021年、主としてプライバシー侵害を根拠に一部差止めを命じたが、「差別されない権利」は内容が不明確だとして独立した保護利益とは認めなかった。
3.東京高裁は2023年、憲法13条と14条の趣旨から、差別を受けず平穏に生活する人格的利益を認め、31都府県に及ぶ情報の公開を差し止めた。2024年12月4日の最高裁決定で高裁判決が確定した。

最高裁決定で8年余りの訴訟が終結
最高裁第三小法廷は2024年12月4日、示現舎による「全国部落調査」の出版・公開をめぐる訴訟で、原告側と被告側双方の上告を棄却し、上告受理申立てを受理しなかった。これにより、出版、販売、ウェブ掲載などの差止めと損害賠償を命じた2023年6月28日の東京高裁判決が確定した。最高裁が独自の詳細な実体判断を示したのではなく、地域情報の公開による権利侵害を認めた東京高裁の法的構成が維持された形である。
訴訟で争われたのは、戦前の資料を保存・研究すること自体ではない。かつて被差別部落とされた地域の所在地を一覧化し、現在の住所と結び付け、不特定多数が検索・複製できる状態で公開する行為が、地域の住民や出身者の人格的利益を侵害するかという問題だった。
2016年、現在地を加えた復刻版を出版予告
示現舎は2016年2月8日ごろ、「復刻 全国部落調査 部落地名総鑑の原点」と題する書籍を同年4月1日に発行するとウェブサイトで告知した。元になったのは、財団法人中央融和事業協会が1936年3月に編纂した「全國部落調査」である。元資料には、府県別に地域の所在地、名称、戸数、人口、主業・副業、生活程度が記載され、表紙には「秘」と表示されていた。
示現舎の出版予告では、元資料に掲載された全国5,360以上の地域を一覧化し、昭和初期の地名に加えて、可能な限り現在の地名を掲載すると説明していた。縦書きで手書き部分の多い資料を横書きの活字へ改め、約200ページに圧縮する計画だった。画像、PDF、テキスト形式のデータも「同和地区Wiki」などで公開された。
旧資料をそのまま複製するだけでなく、現在の住所へ接続し、検索可能な一覧へ再編集した点が、裁判上の判断に影響した。地名情報と個人の住所や本籍を照合すれば、特定の人が掲載地域に居住しているか、関係しているかを調べやすくなるためである。
出版前に横浜地裁が仮処分
部落解放同盟と関係者らは2016年3月22日、横浜地方裁判所に出版差止めの仮処分を申し立てた。同裁判所は3月28日、示現舎に対し、出版予定物の出版、販売、頒布を禁止する決定を出した。示現舎側が保全異議を申し立てた後も、個人申立人に関する出版禁止部分は維持された。
その後の本訴では、書籍の出版禁止、ウェブ上のデータ削除、将来の再公表禁止、損害賠償が請求された。対象には地域一覧だけでなく、部落解放同盟の関係者とされた人の氏名、住所、電話番号などを記載した人物一覧や、一部原告の陳述書等の公開も含まれた。東京地裁判決は、本訴4事件と示現舎側による反訴を併合して判断した。
原告側は差別被害、示現舎側は研究・表現の自由を主張
原告側は、地域一覧が公開されれば、住所や本籍との照合によって、本人や家族が被差別部落の出身者であると推測され、就職、結婚、住宅取得などで差別を受ける危険が生じると主張した。インターネット上の情報は複製や転載が容易であり、公開後の回収が著しく困難になることも差止めの理由とした。
示現舎側は、「全國部落調査」は歴史的・学術的価値を持つ資料であり、公開を禁止すれば学問の自由と表現の自由を侵害すると主張した。地域情報を公開しても個々の原告が部落出身者であると直ちに分かるわけではなく、差別の危険が発生するとも限らないとの立場を取った。示現舎側は、仮処分によって出版機会や研究・表現活動を妨げられたとして、原告側への反訴も提起した。
裁判所に課されたのは、差別被害を防ぐ人格権と、資料を出版・公表する表現・研究上の利益を比較する作業だった。地域情報に歴史的価値があるかという一点だけでなく、現在地の追加、一覧性、検索性、公開目的、現在も残る差別意識が併せて検討された。
東京地裁はプライバシー侵害を中心に判断
東京地方裁判所は2021年9月27日、示現舎と代表者らに対し、書籍の一部について出版、販売、頒布を禁止し、ウェブ上の該当情報を削除して将来の公表も行わないよう命じた。個人原告の一部に対する損害賠償も認め、示現舎側の反訴はいずれも退けた。
地裁が中心に据えたのはプライバシーだった。地域一覧そのものは個人情報ではないが、公開された住所や本籍と照合する調査を容易にし、掲載地域内に住所または本籍があることを広く知られる結果を生じさせると判断した。地裁は、地域一覧の一般公開を、対象地域内に住所や本籍がある個人について、その事実を公表する行為と同視できるとした。
ただし、地裁がプライバシー侵害を認めたのは、原則として現在の住所または本籍が掲載地域内にある原告との関係だった。過去の住所や本籍、親族の住所などを介して地域との関係を推測される原告については、照合が容易とはいえないとして、救済範囲から外した。
原告側が主張した「差別されない権利」について、地裁は、その内容が不明確であり、プライバシーなどの権利が侵害される場合を超えて、どのような場合に侵害が成立し、私法上どのような効果が生じるのか判然としないとした。独立した権利侵害としては認めなかった。
東京高裁は「差別への不安」も法的被害と認定
東京高裁は2023年6月28日、地裁の枠組みを変更した。憲法13条が個人の尊重と幸福追求権を、14条1項が法の下の平等を定めている趣旨から、人は不当な差別を受けず、人間としての尊厳を保ちながら平穏に生活できる人格的利益を有し、この利益は法的に保護されると判断した。
高裁が認めた被害は、就職拒否や結婚反対などの差別が実際に発生した場合に限られない。地域情報が公表され、差別を受けるかもしれないとの不安を抱きながら生活すること自体が、平穏な生活を害するとした。現在も偏見や身元調査が残り、インターネット上の識別情報が増えているという社会状況を踏まえた判断だった。
この人格的利益は、一般に「差別されない権利」と表現される。ただし、高裁判決の論理は、抽象的な差別禁止原則だけから、あらゆる差別的表現の差止めを認めたものではない。掲載地域との具体的な関係、差別を受ける危険、情報の公開方法を個人ごとに検討し、人格権に基づく削除、差止め、損害賠償を認めたものである。
過去の住所や親族関係も救済対象へ
高裁は、現在の住所または本籍が掲載地域内にある人だけでなく、過去に住所・本籍を置いていた人や、両親・祖父母などの親族が掲載地域に住所・本籍を有していた人も、差別を受ける危険があると判断した。地裁より広い範囲で人格的利益の侵害を認めた。
ただし、親族関係は幅が広いため、すべてを一律に救済対象としたわけではない。地域との関係を自ら積極的に公表している場合や、親族との関係が希薄な場合などは、個別事情を審査するとした。部落解放同盟への加入が知られていることだけで、本人が出身地域を積極的に明らかにしたとはいえないとも判断した。
この判断によって、差止め対象となる地域は31都府県に拡大した。高裁判決の別紙には、茨城県、栃木県、群馬県、埼玉県、東京都、神奈川県から九州各県まで、31都府県の表が列挙されている。
表現の自由との比較では匿名化の可能性を重視
高裁は、地域情報の公表禁止によって、示現舎側の調査・研究そのものが禁止されるわけではないと指摘した。研究結果を発表する場合も、必ず具体的な地域名を特定しなければならないわけではなく、対象地域を匿名化する方法があるとした。
裁判所は、研究・表現上の利益が存在しないとは判断していない。地域名を不特定多数へ公開する必要性と、原告らが差別を受ける不安なく生活する利益を比較し、後者が上回ると判断した。したがって、判決は部落問題の研究、歴史資料の保存、匿名化した研究成果の公表まで禁止するものではない。
出版差止めは、表現が公表される前に流通を止める措置であり、表現の自由への強い制約となる。そのため地裁は、侵害が予想され、重大な損失のおそれがあり、事後的な回復が不可能または著しく困難な場合に差止めを認めるとの基準を示した。インターネット上へ公開された地域一覧は複製・転載を止めにくく、損害を後から回復することが困難だとして、出版と再公表の禁止を認めた。
31都府県の差止めは全国一律の禁止ではない
高裁判決は31都府県の情報について差止めを命じたが、日本全国のすべての掲載地域を一律に公開禁止としたわけではない。民事訴訟では、原則として原告自身の権利侵害または侵害のおそれに対応する範囲で救済が認められる。
本件でも、個人原告本人や親族の住所・本籍と掲載地域との関係を個別に確認し、その関係が認められた地域について差止め範囲を定めた。部落解放同盟という団体自体については、個人と同じ人格的利益の侵害や業務妨害を認めなかった。
この判決構造では、原告との具体的な関係が立証されていない都道府県の情報は、同じ資料に含まれていても差止め対象に入らない。全国規模のデータベースに対し、個々の住民が原告となる民事訴訟だけで、どこまで包括的な削除を実現できるかという限界が残った。
最高裁が確定させたもの
2024年12月4日の最高裁決定によって確定したのは、具体的な地域情報の公開が、掲載地域と関係を持つ人の人格的利益を侵害し得ること、侵害が認められる範囲では出版・ウェブ掲載などを差し止められること、調査や研究は地域を匿名化して継続できるという東京高裁の判断である。
これは、「古い公文書に記載された情報であれば自由に再公開できる」という判断でも、「部落問題に関する地名は一切研究できない」という判断でもない。資料の成立時期だけでなく、現在地への変換、一覧性、検索性、現在の差別状況、公開による生活上の不安を総合して、公開方法の違法性を判断した。
示現舎が2016年に計画した復刻版は、1936年の資料を保存するだけではなく、5,360以上の地域を活字化し、現在地を加え、不特定多数が利用できる情報へ変換するものだった。東京高裁は、その公開によって生じる人格的利益の侵害を認め、31都府県の情報を対象に出版と再公表を禁じた。最高裁決定でこの判断は確定したが、差止め対象外となった地域の情報をどのように扱うかという制度上の問題は残されている。
東京地方裁判所「令和3年9月27日判決 損害賠償等請求事件」 URL:https://www.courts.go.jp/assets/hanrei/hanrei-pdf-91299.pdf
東京高等裁判所「令和5年6月28日判決 損害賠償等請求控訴事件」 URL:https://www.courts.go.jp/assets/hanrei/hanrei-pdf-92822.pdf
部落解放同盟中央本部「『全国部落調査』復刻版出版事件高裁判決確定で声明」 URL:https://www.bll.gr.jp/info/news2025/news20250115-4.html

