ハンセン病回復者が語る57年の闘い 差別と向き合い続ける人生

大阪府人権相談・啓発等事業は、令和7(2025)年度「人権リレーエッセイ」第4回として、ハンセン病関西退所者原告団いちょうの会の山城清重さんの証言を掲載した。山城さんは1942年、島根県に生まれ、小学4年生の時にハンセン病と診断され、岡山県の国立療養所・長島愛生園に収容された。本人の証言からは、病気そのものよりも、国の隔離政策と社会の偏見が、子どもの人生、家族関係、教育、就労、医療へのアクセスを長く制限してきた実態が浮かび上がる。

ハンセン病をめぐっては、国や自治体がかつて「無らい県運動」などを通じて患者の隔離を進め、社会に強い偏見を広げた歴史がある。山城さんは療養所内で「園名」の使用を勧められたが、家族が迎えに来た時に見つけてもらえなくなるとして、本名を使い続けたという。しかし、家族との再会は容易ではなく、療養所で亡くなる人の遺骨が家族に引き取られない現実にも直面した。これは、個人の病歴が家族全体の結婚、地域関係、生活基盤にまで影響を及ぼした差別の構造を示している。

19歳で社会復帰した後も、差別は終わらなかった。山城さんは病歴が知られることを恐れ、会話や人付き合いを制限し、体調が悪くても長年病院を受診しなかったという。ハンセン病は治療法が確立された病気であり、回復者が地域で生活することは当然の権利であるにもかかわらず、偏見は医療、雇用、交友関係、結婚、家族との接触にまで影を落とした。人権の観点からは、差別が単なる「誤解」ではなく、制度と社会意識が重なって人間関係そのものを奪う問題である点を見落としてはならない。

2001年のハンセン病国家賠償訴訟熊本地裁判決、2019年のハンセン病家族訴訟判決などを経て、国の責任は司法上も明確にされてきた。しかし山城さんが語るように、国が責任を認めたことと、地域社会から差別がなくなることは同じではない。法的救済や補償制度は重要な到達点である一方、回復者や家族が安心して医療・介護を受け、病歴を理由に孤立しない地域環境を整えることが、今なお課題として残されている。

山城さんは現在、支援センターの仲間との出会いを通じて、自ら名乗り、取材や研修で経験を語る活動を続けている。57年ぶりに故郷へ戻り、親族や同級生と再会した経験は、差別が奪ってきたものが「人と関わる喜び」であったことを改めて示す。ハンセン病問題は過去の隔離政策の検証にとどまらず、感染症、障害、病歴、家族への偏見が社会の中で再生産されないよう、行政、医療・福祉関係者、教育現場、市民が継続的に学び直すべき人権課題である。

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