1.無らい県運動は、ハンセン病患者を地域から見つけ出して療養所へ送り、「患者のいない県」を目指した官民一体の運動で、1929年ごろから広がった。
2.戦後も運動は続き、1951年の長野県では市町村・警察署からの通報や一般住民からの聞き込みが患者発見の方法とされた。愛知県では未収容患者305人を対象に隔離収容が進められた。
3.2024年度の全国意識調査では、治療法確立後も強制隔離が「やむを得なかった」とする誤った言説を支持する回答が9.6%あった。無らい県運動の検証は、現在のハンセン病差別を考える材料でもある。

「患者のいない県」をつくる運動
「無らい県」とは、ハンセン病患者が一人も発生しない地域を意味した言葉ではない。厚生労働省の「ハンセン病問題に関する検証会議最終報告書」は、すべての患者を療養所へ隔離し、放浪する患者や在宅患者が地域にいなくなった状態を意味したと整理している。
この言葉が確認されるのは1929年の愛知県で、1931年の「癩予防法」によって隔離対象が広がった後、1936年以降に強く推進された。
患者を見つけ出し、療養所へ入所させる。行政だけでなく民間団体や地域社会もこれに加わる。こうした官民一体の活動が「無らい県運動」だった。
なお、「癩」「無癩県」などは現在用いる名称ではない。本記事では当時の法令、団体名、政策用語を説明する場合に限って歴史的表記を用いる。
ポスター、映画、講演会が隔離を社会へ広めた
無らい県運動を支えた団体の一つが、1931年に設立された財団法人癩予防協会だった。
同協会は毎年6月25日前後に「癩予防デー」を実施し、ポスターの掲示、パンフレットやリーフレットの配布、映画上映、講演会などを展開した。
現在なら、感染症に関する啓発は患者への偏見を防ぐ役割を担う。しかし当時の啓発では、患者を療養所へ入れることがハンセン病対策として社会に示された。
厚生労働省の検証報告書は、こうした活動がハンセン病への過度な恐怖を社会に形成し、患者への偏見を助長したと分析している。
行政や専門家が発信する情報そのものが、患者を地域から切り離す政策を正当化する役割を果たしたことになる。
警察官が患者宅を訪問
無らい県運動では、患者を把握する仕事を医療機関だけが担ったわけではない。
厚生労働省の検証報告書によると、1936年の富山県では、県内にいた在宅患者30人の自宅を県の衛生技師、警察官、防疫医が訪問した。療養方法や消毒方法を指導するとともに、療養所への入所を勧めている。
翌1937年には、県が各警察署長に患者と疑われる人の調査を行わせ、11人を発見したとの記録も残る。
病気が疑われる人を警察が地域で探す。
現在の医療の感覚からみれば異例だが、当時は患者を地域からなくすこと自体が政策目標だった。そのため、衛生行政、医療、警察が一体となって患者の所在を把握した。
患者にとって病名を知られることは、治療につながるだけではない。療養所への収容や家族への差別につながり得るものだった。
戦後、治療薬が登場しても終わらなかった
無らい県運動は戦前の政策では終わらなかった。
戦後には治療薬プロミンの使用が広がり、ハンセン病を治療できる条件が整い始めた。それにもかかわらず、隔離収容を強める施策が並行して進められた。
1950年、国は国立療養所を2,000床増床する計画を進めた。厚生省は都道府県に一斉検診を行わせ、「らい患者及び容疑者名簿」の作成を指示している。
検証報告書によると、その患者発見方法には、一般住民からの投書や、路上生活者などの調査まで含まれていた。
大阪府では同年、警察と市区町村を動員して「患者の所在調査」などを実施した。
1951年度にはさらに1,000床、1952年度には1,500床の増床を前提とした政策が進められ、1952年の厚生省通知では「登録未収容患者の完全収容」が目標として掲げられた。
治療の可能性が高まった時期に、地域で暮らす患者を療養所へ集める仕組みも強化されていたのである。
長野県では「一般住民よりの聞込み」
地域住民が患者発見に組み込まれたことを端的に示す資料が、1951年の長野県の事業計画である。
厚生労働省の検証報告書によると、長野県は同年度について「無らい県運動を強力に実施する」と明記した。
患者家族の健康診断、患者や疑いのある人の調査、患者の一時救護や収容を行うとし、その患者発見方法として、
「市町村及び警察署の協力活動による通報」
「一般住民よりの聞込み」
を掲げていた。
本人が医療機関へ相談するのではない。
周囲の住民や警察が「あの人は患者ではないか」と情報を集め、行政へ伝える仕組みである。
ハンセン病であることを知られれば療養所へ送られる可能性があり、家族にも差別が及ぶ状況では、患者にとって病気を隠すこと自体が地域で生活するための手段になった。
無らい県運動は、患者の居住場所だけでなく、近隣住民との信頼関係にも影響を与えた。
愛知県「未収容患者305人」が標的に
愛知県の資料からは、患者を行政上どのように捉えていたかが分かる。
1947年10月から1948年3月までの調査では、愛知県内で「未収容患者」305人、療養所等への収容患者57人、死亡者57人、行方不明者77人が把握された。
県は、その後の無らい県運動で未収容患者305人を主な対象とした。
検証報告書によると、尾張地方を中心に隔離収容が進み、140人が療養所へ収容された。
ここで使われている「未収容患者」という言葉にも、当時の政策思想が表れている。
地域の自宅で暮らす患者を単に「在宅患者」とするのではなく、「まだ収容されていない患者」として行政が把握していたからである。
患者が地域で暮らしている状態ではなく、療養所へ入る状態を政策上の標準とする発想が、この用語からも読み取れる。
「患者本人のため」という説明
戦後の隔離政策は、患者を危険人物として排除する言葉だけで進められたわけではない。
福島県衛生部が1950年に作成したパンフレットでは、療養所について、新薬プロミンによる治療を受けられ、生活上の不自由もない「楽園」のような場所として説明した。
そして、患者が療養所へ入ることは「本人の為にも、世の中の為にも」必要だという趣旨が示された。
ここに無らい県運動の別の側面がある。
隔離は、必ずしも「患者を排除する」と露骨に説明されたわけではない。患者の治療、家族の安心、地域の衛生などを理由に、本人の利益にもなる政策として説明された。
しかし療養所への入所は、住まい、仕事、家族との生活、結婚、子育てなどに大きな制約を生じさせた。
善意や保護を掲げる政策でも、本人の意思や権利を無視していないかという検証が必要になる。
一家9人の心中が示した「地域に知られる恐怖」
無らい県運動による社会的圧力を示す出来事として、厚生労働省の検証報告書は1951年1月の山梨県の一家心中事件を取り上げている。
山梨県北巨摩郡多麻村で23歳の男性がハンセン病と診断され、その日の夕方、村役場から自宅を消毒すると伝えられた。その後、両親や兄弟姉妹を含む一家9人が死亡した。
検証報告書は、この事件について単一の原因だけで説明してはいない。その一方、当時の患者団体は、家の大規模な消毒などによって周囲に患者の存在が知られることへの恐怖が、一家を追い詰めたのではないかと強く抗議している。
無らい県運動の下では、患者の家を消毒する行為が感染対策であると同時に、地域に「この家には患者がいる」と知らせる結果にもなった。
病気の情報が本人の私的な医療情報にとどまらず、家族全体の社会生活を左右する情報になっていた。
患者本人だけではなく家族も地域から孤立
無らい県運動による影響は患者だけにとどまらない。
患者が療養所へ入れば、残された家族にも「患者の家族」という視線が向けられた。結婚、就職、学校生活、地域での人間関係などに影響し、患者との家族関係を隠して生活する人もいた。
2019年のハンセン病家族訴訟熊本地裁判決を受け、国会は同年、ハンセン病元患者家族補償法を制定した。
現在の「ハンセン病問題の解決の促進に関する法律」第3条も、元患者本人だけでなく、その家族について、元患者の家族であることを理由とする差別その他の権利利益侵害を禁止している。
つまり、現在の法制度は、隔離政策が作った被害を「患者本人の被害」だけでは捉えていない。
無らい県運動で地域社会が患者の発見や隔離に参加したことは、その家族が地域社会の中で受けた差別ともつながっている。
「住民参加」が常に人権を守るとは限らない
行政施策では「地域住民との連携」や「住民参加」は肯定的な意味で使われることが多い。
無らい県運動は、それ自体が人権保障を意味するわけではないことを示している。
行政の政策目標が誤っていれば、警察との連携、地域組織の協力、住民からの情報提供、啓発活動などが、特定の人を社会から排除する方向に働く場合がある。
しかも、参加した住民全員が患者への悪意を持っていたとは限らない。
「地域の衛生を守る」
「家族への感染を防ぐ」
「患者に治療を受けさせる」
といった理由から協力した人もいたと考えられる。
差別を生む仕組みは、明白な憎悪だけで成立するとは限らない。公益、安心、安全、善意といった理由で人権制限が社会に受け入れられる場合もある。
2024年度調査でも残る隔離政策への誤解
無らい県運動が現在の問題とつながることは、最新の意識調査からも読み取れる。
厚生労働省の委託で行われた2024年度「ハンセン病問題に係る全国的な意識調査」は、20,916人を対象としてハンセン病への認識などを調べた。
「有効な薬が開発され治療法が確立された後であっても、患者を療養所に強制的に隔離してきたことはやむを得ない措置だった」という誤った言説について、「そう思う」「どちらかといえばそう思う」と回答した割合は合わせて9.6%だった。
「どちらともいえない」は15.0%、「わからない」は22.2%で、明確に否定しない回答も一定数あった。
同じ調査では、ハンセン病元患者や家族が近所に住むこと、同じ職場や学校を利用することなどでは抵抗を感じない回答が過半数だった一方、同じ浴場を利用することや、元患者の家族と自分の家族が結婚することについては、抵抗感を示す回答が18.5~21.8%だった。
調査報告書は、これらの回答をそのまま社会全体の差別の程度とみなすことには注意を促している。その上で、「2001年の熊本地裁判決以降、偏見差別がある程度解消された」という認識は妥当ではないと整理した。
無らい県運動によって形成された「患者を社会から離す」という発想が、法律の廃止だけで自動的に消えたとはいえない。
2026年、国は改めて強制隔離政策を追悼
2026年6月22日、厚生労働省は「らい予防法による被害者の名誉回復及び追悼の日」の式典を開いた。
上野厚生労働大臣は、かつての強制隔離政策によって患者、元患者、その家族が人権上の制限や偏見・差別を受け、平穏に暮らすことを妨げられたことを深刻に受け止めると述べた。
「らい予防法」が廃止されたのは1996年。2026年で30年となる。
一方、国の検証資料が示す無らい県運動では、患者発見のために行政、警察、市町村、地域住民、民間団体が動員された。その過程で、隔離は行政だけの制度ではなく、地域社会の行動へ変換された。
無らい県運動を検証する意味は、「昔は病気への知識がなかった」と説明することにはない。
国がどのような政策目標を掲げたのか。自治体がどのように実行したのか。警察や住民がどう関与したのか。広報や啓発は何を社会に伝えたのか。そして、その制度によって患者と家族の生活がどう変わったのか。
2024年度の全国意識調査で隔離政策への誤解がなお確認され、2026年にも国が被害者の名誉回復と追悼を続けている現在、無らい県運動は過去の感染症対策としてではなく、行政と地域社会が人を排除する仕組みをどのように形成したのかを検証する歴史として位置付ける必要がある。
厚生労働省「ハンセン病問題に関する検証会議 最終報告書」
https://www.mhlw.go.jp/topics/bukyoku/kenkou/hansen/kanren/4a.html
厚生労働省「ハンセン病問題に関する検証会議最終報告書 第六 ハンセン病に対する偏見・差別が作出・助長されてきた実態の解明」
https://www.mhlw.go.jp/topics/bukyoku/kenkou/hansen/kanren/dl/4a18.pdf
厚生労働省「ハンセン病に関する情報ページ」
https://www.mhlw.go.jp/stf/seisakunitsuite/bunya/kenkou_iryou/kenkou/hansen/index.html
厚生労働省「ハンセン病に係る偏見差別の解消のための施策検討会報告書について」
https://www.mhlw.go.jp/stf/newpage_32387.html
三菱総合研究所「令和6年度 ハンセン病問題に係る全国的な意識調査 報告書」
https://pubpjt.mri.co.jp/pjt_related/hansen_survey/orirfa00000000c7-att/hansen_survey_20250404report.pdf
三菱総合研究所「令和6年度 ハンセン病問題に係る全国的な意識調査 概要版」
https://pubpjt.mri.co.jp/pjt_related/hansen_survey/orirfa00000000c7-att/hansen_survey_20250404report_summary.pdf
厚生労働省「ハンセン病問題の解決の促進に関する法律」
https://www.mhlw.go.jp/web/t_doc?dataId=80ab0034&dataType=0&pageNo=1
厚生労働省「『らい予防法による被害者の名誉回復及び追悼の日』式典」
https://www.mhlw.go.jp/stf/photo_report/2026/ph0622-02.html
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