1 令和8年版白書は、政府が2025年度に実施した施策をまとめるとともに、2025年6月に策定された第二次基本計画を特集した。
2 インターネット上の人権侵害を最初に掲げ、ヘイトスピーチ、性的マイノリティ、ビジネスと人権などを独立した課題として整理した。
3 啓発動画や冊子の配布にとどまらず、削除要請、多言語相談、こどもの相談支援、犯罪被害者への法的援助など、具体的な救済へ接続する施策が増えている。

政府は2026年6月26日、「令和7年度人権教育及び人権啓発施策」を国会に報告した。法務省が「令和8年版人権教育・啓発白書」として公開した文書で、2025年度に法務省、文部科学省、厚生労働省、こども家庭庁、経済産業省、農林水産省などが実施した施策をまとめている。今回の白書は、2025年6月6日に閣議決定された「人権教育・啓発に関する基本計画(第二次)」を特集し、単年度の事業報告と、政府が採用した新しい政策体系を一冊の中で示した。
年次報告と基本計画は役割が異なる
白書の全体像を理解するには、「年次報告」と「基本計画」を区別する必要がある。白書は、人権教育及び人権啓発の推進に関する法律第8条に基づき、前年度に政府が講じた施策を国会へ報告する文書である。これに対し、基本計画は同法第7条に基づき、施策を総合的、計画的に進めるための方針を定める。白書は実施記録、基本計画は政策設計に当たる。
第一次基本計画は2002年に策定され、2011年に一部変更された。第二次基本計画は、インターネットとSNSの普及、企業活動の国際化、性的指向やジェンダーアイデンティティをめぐる制度整備など、2002年以降の社会経済情勢と国際的潮流の変化を受けて2025年6月に策定された。令和8年版白書は、第二次基本計画が定めた課題の順序に合わせて、各施策の掲載順も変更している。
インターネットを最初に置いた新しい構成
第2章「人権課題に対する取組」は、①インターネット上の人権侵害、②女性、③こども、④高齢者、⑤障害のある人、⑥部落差別(同和問題)、⑦アイヌの人々、⑧外国人、⑨本邦外出身者に対する不当な差別的言動、⑩感染症、⑪ハンセン病患者・元患者及びその家族、⑫刑を終えて出所した人及びその家族、⑬犯罪被害者及びその家族、⑭北朝鮮当局によって拉致された被害者等、⑮性的マイノリティ、⑯令和7年度啓発活動強調事項に掲げた人権課題で構成される。
令和7年版白書では、インターネット上の人権侵害は第12項に置かれていた。令和8年版で最初に移されたのは、ネット上の問題を一つの独立分野として扱うだけでなく、部落差別、外国人差別、ヘイトスピーチ、性的マイノリティへの差別、犯罪被害者のプライバシー侵害など、複数の課題を横断する媒体として捉え直したためである。第二次基本計画がインターネット上の人権侵害を「課題横断的な人権課題」として再編したことが、白書の章立てにも表れている。
第二次基本計画では、このほか「ビジネスと人権」を新たに盛り込み、「本邦外出身者に対する不当な差別的言動」と「性的マイノリティの人々」を個別課題として明示した。ハンセン病患者・元患者と家族の問題も、感染症一般から切り分けている。差別の原因、歴史、被害の形態、必要となる救済方法が異なる課題を、一括して啓発対象にするのではなく、それぞれ固有の政策領域として扱う変更である。
ネット上の啓発から削除要請まで
2025年に法務省の人権擁護機関が扱ったインターネット上の人権侵犯事件は1,569件だった。2023年の1,824件、2024年の1,707件から2年続けて減少したものの、年間1,500件を超えている。事件数は被害の総数ではなく、法務省が救済手続を開始した事案などを集計した数字であり、ネット上の侵害行為全体の発生率を直接示すものではない。
政府は、誹謗中傷や性的被害の防止を訴える動画とインターネット広告、中高生と保護者向けの冊子、携帯電話会社と連携した人権教室を実施した。法務省は「インターネット上の誹謗中傷書き込み削除依頼の手引き」を作成し、有識者検討会が法的に整理した削除基準を踏まえて、プロバイダー事業者などへの削除要請と意見交換も行った。知識を伝える啓発と、侵害情報を消去する救済手続を一つの政策分野に接続した点が、従来型の広報活動との違いである。
部落差別に関する2025年の人権侵犯事件は509件で、このうち494件がインターネット上で特定の地域を同和地区であると示す「識別情報の摘示事案」だった。部落差別に関する事件の大部分がネット上の情報掲載によって生じていることになり、インターネットを横断課題として扱った理由が数字にも表れている。白書は、講演会、動画、冊子による啓発と並行して、差別を助長する書き込みへの削除要請を施策として掲げた。
こどもへの相談経路を複線化
こどもの人権に関する人権侵犯事件は、2024年の1,500件から2025年には2,184件へ増加した。女性の人権に関する事件も331件から472件へ増えている。事件数の増加だけで、いじめ、虐待、DV、セクシュアルハラスメントの発生件数が同じ割合で増えたとは判断できない。相談窓口の周知、関係機関からの情報提供、被害の把握方法が変われば、救済手続に表れる件数も変動するためである。
こども分野では、児童の権利に関する条約を説明する冊子と動画、いじめや児童虐待を扱う人権教室、全国中学生人権作文コンテストに加え、「こどもの人権SOSミニレター」「こどもの人権相談」強化週間、法務局LINEじんけん相談などが実施された。対面で被害を説明しにくいこどもが、手紙、電話、チャットを選べるよう相談経路を複数用意している。
文部科学省は、スクールカウンセラーとスクールソーシャルワーカーの配置、24時間子供SOSダイヤル、地方公共団体によるSNS相談の整備を支援した。2026年1月には、児童生徒への暴力行為を撮影した動画がSNS上で投稿、拡散された事案を受け、学校と設置者に緊急対応事項を通知した。「生命(いのち)の安全教育」では、性暴力の被害者、加害者、傍観者にさせないための教材を改訂し、発達段階に応じた指導例動画を公開している。
属性別の啓発と相談支援
高齢者分野では、高齢者虐待や認知症を扱う動画の配信と、社会福祉施設における相談体制の強化を実施した。障害のある人については、冊子やシンポジウムだけでなく、車椅子体験、パラリンピアンの講話、ボッチャや車椅子バスケットボールの体験と人権教室を組み合わせた。「心のバリアフリー」を抽象的な標語にせず、移動やスポーツの体験を通して障壁の存在を理解する構成である。
外国人に対する相談は約80言語に対応し、啓発動画、冊子、共生をテーマとするシンポジウムを実施した。ヘイトスピーチについては、アニメーションを用いたデジタル教材、ポスター、ネット上のヘイトスピーチに焦点を当てた動画、SNSによる継続的な情報発信を組み合わせている。アイヌの人々に関してはインターネット広告と啓発動画、ハンセン病問題では元患者と家族との協議を基にしたシンポジウムと動画を掲載した。
これらはすべて偏見や差別に関係するが、同じ手法で処理できる問題ではない。部落差別では地域情報の拡散と削除、外国人では言語上の障壁と相談へのアクセス、ハンセン病問題では国の隔離政策によって形成された差別の歴史、アイヌの人々については民族としての文化と尊厳への理解が、それぞれ政策の前提となる。白書の課題別構成には、異なる被害構造を混同せずに扱う役割がある。
ビジネスと人権を国内の啓発政策へ
第二次基本計画が新たに盛り込んだ「ビジネスと人権」は、企業規模や業種を問わず、事業活動が労働者、取引先、消費者、地域住民などへ及ぼす影響を扱う。令和8年版白書には、経済産業省による中小企業向けセミナー、厚生労働省による国際労働基準のチェックブック、農林水産省による食品企業の取組事例集、法務省による中小企業の実践事例の周知が掲載された。職場のハラスメントについても、事業主への助言指導、総合情報ポータルサイト、パンフレットを通じた防止措置の周知が行われている。
国際的には、国連人権理事会が2011年に「ビジネスと人権に関する指導原則」を支持した。同原則は、国家の人権保護義務、企業の人権尊重責任、被害者による救済へのアクセスを三つの柱とする。日本政府は2020年に行動計画を策定し、2025年12月24日に改定版を決定した。第二次基本計画への追加は、これまで外交、通商、労働政策を中心に扱われてきたビジネスと人権を、国内の人権教育・啓発政策にも組み込む変更といえる。
ただし、基本計画への記載は、それ自体が企業に法的な人権デュー・ディリジェンス義務を課すことを意味しない。人権教育・啓発基本計画と、企業活動を直接規律する法令や行政指針は別の制度である。白書が報告するのは主として研修、周知、事例提供などの施策であり、企業による人権侵害の監督や法的責任を網羅的に検証する報告書ではない。
救済へ直接つながる制度も掲載
犯罪被害者と家族の分野では、日本司法支援センター(法テラス)による犯罪被害者等支援弁護士制度の運用開始がトピックスとして掲載された。法テラスと契約した弁護士が、刑事手続や民事手続、犯罪被害者等給付金の申請、報道機関への対応などを継続的に支援し、費用を法テラスが負担する制度である。動画や冊子による啓発とは異なり、被害者が司法手続と支援制度へアクセスするための実務的な援助に当たる。
ゲノム情報に関しては、遺伝情報を理由とする不当な差別事例の収集と対応方針の整理を開始し、被害を受けた場面に応じた相談先を案内した。採用、保険、医療、家族関係などに影響し得る情報について、科学的な理解の普及だけでなく、差別が生じた際の相談経路を整える施策である。2025年のゲノム情報に関連する人権侵犯事件は9件だった。件数が少ないことは、潜在的な被害が少ないことを直ちに示すものではなく、本人が遺伝情報の利用や差別を認識できるかという問題も含んでいる。
教育施策とデフリンピック
白書の第1章は、学校教育と社会教育を含む普遍的な取組を扱う。文部科学省は、学校、家庭、地域社会を結ぶ実践研究を進めるとともに、人権教育の教材と事例を集約する「人権教育アーカイブ」を整備した。社会教育では、社会教育主事の養成と資質向上を実施している。第3章は人権に関わりの深い特定の職業に従事する者への研修、第4章は関係行政機関や地方公共団体との連携など、施策の実施体制を報告する。
トピックスには、2025年11月に国内で初めて開催された東京2025デフリンピックが取り上げられた。スポーツ庁は、全国の商業施設でのブース出展、キャラバンカーの巡回、デフアスリートの学校派遣を支援した。文部科学省は、聴覚障害のない児童生徒が聴覚障害と手話への理解を深めるための動画教材を開発した。
デフリンピックを競技大会の広報として終わらせず、学校教育や地域啓発へつないだ点には、聴覚障害者の情報保障、手話によるコミュニケーション、スポーツと社会参加を一体として扱う狙いが読み取れる。障害者施策を「支援を受ける人」の問題だけに限定せず、情報や施設、教育の側にある障壁を見直す契機として整理した内容である。
白書の数字をどう読むか
令和8年版白書には、人権侵犯事件数、相談事業、教材、動画、研修、シンポジウムなど、多数の施策が掲載されている。ただし、人権侵犯事件数の増減だけで、差別や虐待が改善したか悪化したかを判断することはできない。救済機関への認知度、被害者が相談できる環境、関係機関による発見、統計上の分類変更によっても件数は変わる。啓発動画の配信や冊子の作成も、それだけで行動や制度運用が変わったことを証明する指標ではない。
白書を検証資料として使う場合、第一に、相談や教材が必要な人へ届いたか、第二に、削除要請や法的支援によって被害がどのように改善したか、第三に、学校、企業、福祉施設、行政機関の手続へ施策が組み込まれたかを、個別の統計や事業評価と照合する必要がある。年次報告が示すのは政府が実施した施策であり、差別や人権侵害の全体量を測定した調査ではない。
令和8年版白書は、インターネットを横断課題の先頭に置き、ビジネスと人権、ヘイトスピーチ、性的マイノリティ、ハンセン病問題を明確に整理した。啓発中心の施策に加え、ネット情報の削除要請、約80言語の相談、LINEを利用したこどもの相談、法テラスによる犯罪被害者支援など、救済への経路も示している。法務省と文部科学省が次回以降の年次報告で、相談後の改善、削除要請の結果、学校や企業での定着状況をどこまで測定可能な形で示すかが、第二次基本計画の実効性を判断する材料となる。
法務省「令和8年版人権教育・啓発白書(令和7年度人権教育及び人権啓発施策)」、文部科学省「令和7年度人権教育及び人権啓発施策(年次報告)について」
URL:https://www.moj.go.jp/JINKEN/jinken04_00365.html

